”海外の空は綺麗”
という先入観は、きっと絵葉書やポスターなどから来る印象が強いからでしょう。日本だって空気の澄んだ場所ではまだまだ綺麗なんですけど。ラスベガスは砂漠の真ん中に突如として作られた人工的な街なので、周囲に自然が多い分空気は綺麗ですが風の強い日には埃が舞い上がり一気に霞んでしまいました。
日本に帰国してから、普段はあまり語り合う事の無い知り合いと、写真について多少ディスカッションする時間がありました。
空は青くて、フレーミングが決まっていて、解像度が高く綺麗なプリントこそが
”プロ級の仕上がり” なのだという彼の写真に対する結論は、話の半分も聞かないうちから十分伝わってきました。
写真の在り方には正解も間違いもありませんから、自分で納得のいく仕上がりに近付けられれば最高で
そこに楽しさも伴うわけですが、彼の言う写真の世界は少なくとも私が向き合おうとしている写真のスタイルとは大きくかけ離れていて、そんな時、”プロ級”
について同意を求められると少し困ったりします。
内田ユキオさんの言葉に、「この先デジタル技術が進み、世の中の写真の多くが作られた青に変わったとしても、そこに本当の空が無くなったわけではない」
といったニュアンスの表現があって、写真に対する会話の中で自分の志を相手に伝える手段としてこうした言葉を利用させてもらいたくもなるのですが、よくよく考えれば写真という最大の表現方法がありながらそれを言葉で補助しなければならないのは少し寂しい事であり、自分の写真に力の無さを感じる瞬間でもあります。
慣れれば慣れるほど、難しくなるのが写真だと、最近そんな事を考えます。 |