自由とは不自由さの中にいて

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1枚の写真として切り取られた現実の中に何を感じるかよりも、そこに使われた機材を数値的に比較し、出来の善し悪しを判断するような現代は、必ずしもカメラの進化に比例して豊かな表現を手に入れたとは言い難いと私は考えます。

19世紀後半から20世紀にかけて、生まれて間もない写真技術の方向性は、被写体のあるがままを写し取る技法として、ストレートフォトグラフィこそが絵画とは独立した写真(カメラ)のあるべき姿だとされていたようです。しかしそれに反発する写真家も勿論出てくるわけで、いやいや、写真というのはもっと自由な発想で表現してもいいじゃないか、例えば画の一部をぼかしてみたり、背景のコントラストを落とすことで手前を強調してみたいり、時には合成してみたり...。写真は絵画とは違うが絵画のような要素を取り入れ表現することも写真家の技法の一つとして尊重すべきではないのか...。

当時は、写真という手段を使って何かを表現することさえ写真家個人の自由ではなく、ある種ルーツの延長でしか認められなかったわけですね。後にこの絵画的表現の自由を訴える組織的芸術活動をピクトリアリズムと呼ぶようになったわけです。

そんなピクトリアリズムを主張する写真家 ”フェリックス・ティオリエ” の写真展は現在世田谷美術館で開催されており、約170点ものビンテージプリントが展示されています。中にはカラーポジの展示もありましたが、その当時はカラープリントの技術は無かったでしょうから、ゼラチンシルバープリントの全てはモノクロで仕上げてありました。

絵作りが好きとか嫌いとかでは無く、誰にでも写真が撮れる時代では無かった頃の作品だからこそ、写真家の癖や表現方法の方向性がわかりやすく現れていて、現代の写真展とは違った発見が多いです。勿論、感光材料も今とは比較にならないくらい性能の悪いものだったでしょうから、人物の集合写真に被写体ブレが多く確認出来るのもその時代の特徴です。

写真の表現方法に自由を求めた時代には、気軽に持ち歩けるようなカメラ(写真機)など無かった事も忘れてはいけないように思います。展示が最後に近づくに連れ、フェリックス・ティオリエが実際に使っていた巨大なカメラが出現しその大きさを思い知らされます。個性を表現に変える努力は不自由な時代だったからこそ今より大きくことさら強かったのかも知れません。

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