肖像とは何か、考える時間となった

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清里フォトアートミュージアムを訪れたのは半年ぶりくらい。前回は「もう一度写真の話をしないか」というキャッチーなタイトルが印象的だったロバートフランク写真展でしたが、今回は「写真と肖像 顔から風景へ」。

清里といえど、このミュージアムは大通りから少々奥まった森の中に存在するため、知る人ぞ知る隠れ家的な会場。

ジムニーで行っても良かったのですが、この帰り道ホームセンターで植木を支える竹の支柱を購入する予定があり軽トラで向かいました。

ミュージアムに軽トラで行く人ってそう多くはないと思いますが、都会ならともかく清里周辺ならこれはこれで絵になって面白いです。

「肖像」と聞いて多くの人が想像するのは人物を対象とした描写だと思いますが、本展では、肖像をテーマに、自己と他者、社会、風景の重層的な関係が注目されています。何より、展示を見る事でなるほどという感想を持ちました。

静かな館内にはBGMなどなく、時間が止まったような空間に作者の表現だけが色付けされることなく展示されています。都会の写真展の場合には来場者が多いので後ろから来る人に押し出されるように次々作品を流し見していく感が否めませんが、ここは良い意味で人里離れていますからマイペースで作品に集中できるのです。

なるほどと思ったのは3.11の東日本大震災に関する写真の立ち位置。人物に特化したように見えて、その人物が身を置く環境と共に記録した写真に意味が生まれ、震災の現実を目の当たりにしながらカメラの前に立ってもらえる人間関係も、写真にこそ写らない写真家の素質が現れていると感じました。

震災だけを伝えたいわけではなく、人物の存在を伝えたいだけでもない、震災の中に生きる人とその間に交わされたであろう少しあたたかな空気。肖像という言葉の奥深さを感じる作例でした。

組み写真による表現が私は好きです。組み写真というのは2枚以上の写真を組み合わせることで意味を持たせる表現のことで、言葉に代わる伝達方法としては1枚の写真よりもずっと表現力を持ち「写真を読む」という言い方がぴったり。

ここでいう肖像は、対照的に置かれたそれぞれの環境に生きる人という感じでしょうか。

一部ロバートフランクの作品も展示されておりましたがそちらは撮影が禁止されていたためここに掲載はできません。肖像という意味でセルフポートレートもその一部と解釈すれば、ここにビビアンマイヤーの作品が並んでもおかしくないかな?と思いましたがさすがに展示はありませんでした。

訪れた人各々が想う肖像がここに貼り出されていました。内容に目を通すと多くの人が、家族や、両親を書いていました。やはり肖像と聞くと、ずっとそばにはいてくれない、いつか別れが訪れる人を想うのですね。中には「大切な人は思い浮かぶけど肖像にはしたくない」という印象的な言葉を書いている人もいました。

館内にはフリードリンクが準備されていたり、好きな写真集を手に取ってくつろげるロビーなどもありますが、一歩外へ踏み出せば、すがすがしく開放的な中庭が広がっていて、いつもの事ながら木漏れ日が大変美しく差し込んでおりました。

これまでと異なるのは、現在この中庭スペースにも数々の写真作品が展示されている点で、この演出はMMoPの浅間国際フォトフェスティバルのそれに通ずるものがあります。蚊に刺されそうなので林の中でのんびり作品と向き合っているわけにもいきませんでしたが、虫よけスプレーさえ持参すれば心地よい空間でのんびり過ごすのも悪くないと思います。

正直、写真展の内容に関してはもっと大御所の作品がずらっと並ぶ展示に期待したのですが、今回は確か若手写真家の作品を抜粋して展示していたはずなので、どちらかというと名作を見に行くというよりは、それぞれの視点で見た肖像の形を感じる!というのがテーマでした。

近年私もテーマを持って写真撮影をしていないので、こうした展示から学び、次の自分のステップを考えるのも面白いかもしれませんね。

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