Simply mini J

1日5分、その日の自分を振り返る時間を作りなさい。
    昔そんな話をお坊さんから聞いた。

ファインダーに反射したピンクと緑の日曜日

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All Photo by inos

 
東京では予告より少し早めの開花宣言。桜前線はいつも我々の気持ちを先取りしながら春の訪れを知らせてくれます。

桜の花を写真に納める事は案外難しく、カラーで撮ればあの淡いピンクは白っぽく写ってしまい、逆光気味に撮ればたちまち黒やグレーになってしまう。寄って撮れば頭上から包み込まれるような軟らかな春の印象が薄れてしまい、引いて撮ればぼてっとした塊になってしまう。これは写真家である内田さんが自身のエッセイの中で語っている内容で、そこに集う人たちの想いまでを写し込む事は更に難しいとも付け加えられています。

昨年撮ったこれらの写真、私としては初めて真剣に日本の四季を見つめ、何とか形になった小さな代表作だと思っています。大きな木を挟んで左には明るい春のきらめきが、右には寂しげな秋の落ち着きが、意図せずシンメトリーに配置されたのは、自分自身のフレーミングの癖からなる偶然の組写真。モノクロの桜や紅葉には自身の記憶の色を重ねればいい。それこそが最高のカラー写真であると今も私はそう考えます。

本来ならば、写真という最高に表現力のある媒体に説明は要らないのだと思います。言葉を添える程に画が持つ力が先入観で上塗りされてしまうような気がするのです。

”横断歩道の向こうで、真っ白な傘を差した女の子がこちらを見ていました。”

こう書かれていたら、天気はきっと雨なんだろうとか、そこに信号機があったら赤なんだろうと想像してしまいます。本当は良く晴れた夏の強い日差しに日傘を差した女の子がタクシーを待っていたのかもしれません。

モノクロ写真にもこれによく似たところがあって、色が無いぶん、見る人はそこに想像力が働きます。上の2枚の写真、桜には淡いピンクを、、もみじには染めたような赤を思い浮かべた人が多いと思います。だから春と秋で組み写真なんだと...。

でも実はこの2枚はどちらも日本の春を捉えています。真っ青なもみじです。ですから私の中ではこの組み写真のテーマは ”春” なんです。秋と思えば自然とそこに寂しさが伴うのは写真が持つ力なんでしょうね。

もし秋のもみじの美しさを知る外国人がこの画をカラーで見たとして、その人に対し、「これは春のもみじを撮っていて桜の写真と組み合わせることで日本の四季を表現しています」と伝えてみても、その意図するところを伝えるのは難しいのではないかと思います。きっと、もみじならなぜ一番綺麗な秋に撮っていないのか?と思うはずですから。

写真というのは、どんな機材を使うかとか、どんなアングルで撮るかとか、そういう事以前に、それを見る人が何を感じるか...を考える事が結果的に一番大事なんだと思います。このモノクロ写真を見た外国人の方がこれは日本の春と秋ですね。という感想を持ったならそれはそれで良いのです。写真というのは見る人が価値を決めると言うか、現実を切り取った画の中に現実以上を発見できたのなら、それこそが写真に説明は要らないと言われる所以なのだと考えます。

仕事帰りに見かけた今年のソメイヨシノ。開き始めのその蕾が記憶より濃いピンクに見えるのは、厳しい寒さを乗り越えた人と桜の1年分の想いが重なるからかも知れません。

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