Simply mini J

1日5分、その日の自分を振り返る時間を作りなさい。
    昔そんな話をお坊さんから聞いた。

人が写真を撮るという事

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All Photo by inos

先日YouTubeを見ていたら面白いテーマについて話している方がいてちょっと見入ってしまいました。お題は「もし写真表現がAIに支配されるなら僕は写真をやめる」というもの。

写真を趣味にしている人にとってはこのテーマだけでどこか共感できる点があるのではないでしょうか。

昨今、AIに関する技術というのは日進月歩で車だって無人で走る時代。当然写真を撮るくらいの自動化は難しい事ではありませんし、撮影後の後処理が不要なほどに撮影時のリアルタイム画像処理の技術は上がっています。実際最新のスマートフォンはシャッターを押す前から連続的に撮影が始まっており、人がシャッターを押した前後で一番綺麗(合焦している)なコマが残されていると言いますし、ノイズ処理においても1枚の画の中で部分的に異なる値で補正が掛かっています。

「写真が撮れる事が技術ではなくなった」と言われて久しい写真業界でしたが、いつしか人が操るより機械任せのほうが綺麗な結果が残せるところまで来ています。

となると写真を撮る行為のどこに人間の必要性を見出せばよいのか...という疑問が湧いてきます。

YouTuberのその方は、人には揺らぎがあり昨日と今日で同じものを撮っても全く同じ結果には仕上がらないと言っていました。それは撮影時の感覚もしかり撮影後の後処理も。だから昨日仕上げた写真と今日仕上げた写真は違う、そこに人間らしさが現れるだろうと。確かに私も同感です。いつも同じように見えているはずのオリオン座を写真に撮ったとしても、仕上がった結果は毎回異なる事に驚かされます。人がその時 ”良し” とする感覚は都度異なるのです。

そして私の見解はこうです。その揺らぎ以外の観点で言うならば、写真はどう撮るかではなく、撮影の場で自分が何に感動しそれをどう見ていたのか、そこに尽きる気がしています。なぜカメラを向けようとしたのか、シャッターを押すからにはそれなりの理由がありその意思がはっきりしているはずです。

赤いハイヒールの女性がいたとしてそこに美を感じ写し取ろうとした時、近くに青や黄色が点在していたら仕上がった写真は色とりどりで綺麗だが赤いハイヒールに魅かれた想いは伝わりにくいでしょう。逆に白い建物の前に赤い車が停まっていてそこに赤いハイヒールの女性がいたなら仕上がった写真はうまい具合に赤が協調し相乗効果でその場で感じた以上の結果を生むかもしれません。

そうした環境までを含めた画作りはデータベースを参照するAIには難しい事だと思います。赤をより鮮やかな赤にすることは容易でしょうが、近くに赤い車がいてその関係性に美を感じられるのは人間ならではの感情だと思います。

シャッターを押す自分自身の心までを読み取るカメラが登場したら、その時は確かにAI任せで私も写真をやめるかもしれません。でもまだまだその日は遠いように思います。

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