Simply mini J

1日5分、その日の自分を振り返る時間を作りなさい。
    昔そんな話をお坊さんから聞いた。

足し算ではなく引き算が作り手に求められるセンスか?

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All Photo by inos

以前私が映像編集を仕事にしていた時、一緒に仕事をしていた監督が「編集というのは画を捨てる作業だよ」と言っていたのを今でも覚えています。

仕事の規模が大きかったので20台くらいのカメラで同時撮影している作品でしたが、監督いわくその中で使う映像はたった1台のカメラが捉えたもので残りの19台のカメラの映像は使われないわけだから、画の良し悪しに関わらず結果的に捨てる作業になると。

20カメの撮影というのは数値として分かりやすいため例にあげましたが、仮に1台のカメラで撮影していても、撮影したカットの中で使用する箇所というのは限られた部分でありそれ以外は捨てる作業を繰り返す、言い方は悪いですが編集はそういう作業です。だからこそ、その他を捨ててでも残される映像に意味を見出せているのか、それが編集マンの技量だったりします。

撮影だって同じです。肉眼で見た景色や状況の中から必要な箇所だけをフレーミングし限られた画角の中に収める作業は、言い方を変えればフレーム外の景色は捨てていることになります。肉眼で見ていた豊富な情報量の一部分を切り取り、見る者に伝える唯一の手段とするわけですからフレーミングが重要になるのは当然です。

さて、作品作りをそのような観点で言えば、作者は目的に応じて手段または材料を必要な要素だけに削り(つまり引き算)構成し、それを求めるものに伝える工夫だったりするわけですが、ことカメラという道具に当てはめてみるとどうでしょう?

カメラは道具であり表現ではないので全く話が違う...と言えばそうかもしれませんが、見方を変えれば道具だってある意味 ”製造メーカーが作る作品” というふうにも言えそうです。

今度の新型カメラは解像度が前モデルより何倍も向上しているとか、動画は4K120Pが撮れなければダメだとか、オートフォーカス速度が早くなっているとか、暗所性能が向上しているとか、市場ではどういうわけかそれらは前モデルや競合製品との比較論になり、なんだかそれらをクリアーしてなければ買う価値がない!くらいに語られることが多いように思います。

だからメーカーはこれでもか!と機能をてんこ盛りにせざるを得ず(つまり足し算)、結果的にユーザーは道具としてそれらを使いこなせないような状態...。それが現実かと。

20台のカメラ映像を全て盛り込んだ映像が決して見やすい映像にならないように、道具だって目的別に使いやすさのバランスというものがあるはず。何か一つに特化していてその他は全て切り捨てているけれど、専用の使い方をしたら他では得られないような結果が出せるみたいな、そういうカメラがあっても良いような気はしますね。

そう言う意味では、究極に切り捨ててカメラという機材までを切り捨てたからスマホが普及したのかもしれませんが。

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