Simply mini J

1日5分、その日の自分を振り返る時間を作りなさい。
    昔そんな話をお坊さんから聞いた。

人は自分の気持ちを伝える為に言葉を覚えた

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All Photo by inos

diary6108

先日天体写真を撮っている方々のお話を耳にしてそこで交わされる討論が大変興味深いものでした。

天体写真に限りませんが、デジタル時代になって写真の仕上がりの半分は撮影時のテクニック、残りの半分は撮影後の処理テクニックで決定していて、撮影後の処理は専門家の仕事という印象が強かったフィルム時代を思えば、今は知識さえあれば誰でも自宅のパソコンで操作出来ます。これは、後処理経験者人口が圧倒的に増加した関係で ”意見する人も増えた” という事が言えるかもしれません。良くも悪くもその気になれば皆が同じ土俵で会話する時代です。

天体写真の討論の内容は簡単で、天文雑誌に応募した自分の写真より、他人の写真が上位にランキングされているというもの。そこだけ聞けばきっと他人様の写真はさぞ素晴らしい出来だったのだろうと想像しますが、先に書いた通り現代は仕上げの処理も含めて作品作りという認識を作者自身が持っていますから、途中のプロセスまで含めて評価してほしいという点がここでのポイントでした。例えば片方の作品はバリバリに合成をしていて見栄えが良く、もう片方は一切合成をしていないため派手さは無い。もし自分が合成をしない範囲で最大限の結果を出す事に情熱を注いでいたら、前者の作品は「そりゃ合成すれば簡単だよ」という感想を持つでしょう。

これらの作品を同じ天体写真という枠の中で評価してもらうとなると、一般的には見栄えのする作品の方が目に留まりますし、そこに賞金の掛かった点数を期待するとすれば選者の好みや選考基準に関係してきますから同じ作品でも提出する相手によって結果は変わってくると思いますし、写真は仕上りが全て!というならドキュメンタリーよりCGが勝る事になります。

その時私が感じた率直な感想は、作品に順位を付ける事に意味が無いという結論。順位とまで言わないまでも他人の作品の良し悪しは見る人によって違うという事です。

私は写真展には多く足を運びますが、写真コンテストみたいなものには殆ど行きませんし自分の作品を応募することもありません。写真でも絵画でも、見た人が共感するから言語のように扱われそこに価値を感じるものなのに、どこの誰とも知らない人が「これは良い写真ですから金賞です」と訴えたところで、その作品が自分に影響力があるとは考え難いです。むしろ見た人に「金賞」という点だけが記憶として残り、ああいう作品が撮りたいと真似して同じような作品が増えていく事に違和感を覚えます。

デジタルカメラが普及して、カメラは手に入れたが撮るものが無い...。でも撮る事は大好き! よし!夜の工場地帯を撮りに行こう。よし夜空の星を流して撮ってみよう。よし夏には一面のヒマワリを撮ってみよう。なんだか 「写真雑誌に掲載されている写真」 と同じように撮ってきましたみたいな作品が増えている背景にはそういった事情が関係している気がしてなりません。

これが写真だから同じような画を何度見てもそれなりに見れてしまいますが、日常会話だったら相当飽きてしまいますよね。ああその話なら昨日も一昨日も聞いたよ!みないな。せっかく頑張って英語を習ったのに、いつも教科書通りの会話をしていてもなんら面白くはないはずです。身振り手振りで知らない外国人と会話して、ぎこちないけど会話が成立し相手に想いが届くから喜びがあるわけです。

写真は ”言語” です。

日々の会話に順位とか金賞なんてありません。勿論あの人は話し方が上手い!というのはあるかもしれません。それが俗に言うテクニックなんだと思います。でもそれ以前に大事なのはどんな言葉を使うかではなくどんな会話をするかではないでしょうか?

先日の写真展での一コマ。外人さんが各々興味のあるものに自由に目を通しています。自分にとって価値あるものは自分で決めるものです。一方で子供は何やらディスプレイに夢中。これもまた自分にとって価値のあるものなんでしょう。

コメント

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  1. 大変興味深く、参考になる内容でした。

    ブログ内の「作品に順位をつけることに意味が無いという結論」について、
    すべてに当てはまる話ではありませんが、
    私なりに思うことがありましたのでコメントさせていただきました。

    コンテストとは、他人の評価を受ける絶好の機会であり、
    凡才の世界では一定の基準を設けた上で評価されることで、
    “ひとりよがり”な作品からの脱却に寄与している役割を果たしているものと考えます。
    ただ、コンテストの結果はマジョリティに留まり、
    決して「優れている」とイコールでは無いという認識は必要だと思います。

    テクニックを磨くためにはガムシャラに練習すれば良いものではなく、
    何らかのお手本を意識することがあると思います。
    そのお手本が、マジョリティである「受賞作品」であることは度々あります。
    ところが芸術作品において「テクニック」は欠かせませんが、
    テクニックが論理的に優れていても、最終評価が満点になるものではありません。
    こういった評価には必ず感性が影響してきます。

    感性は受賞作品を模倣していても磨かれるものではありませんが、
    テクニックを得ることでその経験から感性の幅も広がり、
    結果的に作品の仕上がりに大きく影響することもあると考えられ、
    凡才である私のような者にとっては有益なトレーニングに繋がるのではないかと思います。

    日ごろから優良作品に触れることは最も大事だと思いますが、
    巨匠などの作品から得られる情報量も、この段階で格段に差がつくものと思っています。
    天才でもない限り。

    これまで述べたことは”凡才の殻の中”での話です。
    この殻を破ることが出来たとき、初めて自分にも「作品に順位をつけることに意味が無い」と感じられる日がやってくるのだろうなと感じました。

  2. とよぴさん

    まさかここにコメントを残していくとは思っていませんでした。w

    私はコンテストを頭ごなしに否定するつもりもないです。それらの中に自分の作品作りのヒントが含まれている事は少なくないとも思います。

    ただ現代は恵まれていますから先にゴールを見てしまう事が多いです。こんな時私はよくポンペイの壁画の話を例えに出すのですが、2,000年近く前に海底に沈んだそれらの壁画はまだ画を描く道具が無かった時代に描かれています。少なくとも壁画用画材道具が街で売られているなんて事は無かったでしょう。自分たちで道具を作ってでも描きたいものがあったという事です。

    今の私達は道具が先にあって、更には人のお手本を見て、さもそこをゴールのように思い目指す傾向があります。勿論それが心底目指すものだとしたら全力で走るのも良いと思います。

    目の前で起きている何かにレンズを向けようとした時手元にカメラが無かったとしたら、紙と鉛筆を使ってでも形に残そうと思うくらい心は揺れていますか? 誰かに見せてあげたいくらいの瞬間だからこそシャッターを切ろうと思うのが写真の原点かなと考えるわけです。仮にその写真の出来栄えはいまいちだったとしても一人でもそこに共感してくれる人がいたなら写真は言語の代わりになった...と言えそうです。

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