Simply mini J

1日5分、その日の自分を振り返る時間を作りなさい。
    昔そんな話をお坊さんから聞いた。

何でもない日常を伝えるということ

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All Photo by inos

昨夜遅く無事に東京へ戻ってこられました。雪による影響は最小限でプラスを示した気温も札幌にしては随分暖かかったように感じました。なんなら現実逃避して1週間ほど冬の北海道を満喫したい気持ちはありましたけれどあくまで仕事でしたので...。

電飾で彩られた大通公園を写真に収め、帰ってきた東京でそれらを振り返ればどことなく地方感に欠ける仕上がりを見て我に帰ることになりました。キラキラを写すだけなら東京と変わらないじゃないかと...。最近は見栄えのする写真を撮ることに意識が傾いていたようで自分が写真を撮る事の意味みたいなものが疎かになっていたことは間違いありません。

機械の性能が向上し、人の意思とは違う次元で結果を残すことが容易くなった時代、綺麗な写真ならおよそカメラ任せで誰でも撮れる現状、だとしたらそれらを味方にしつつ人に残された表現とは何か?そんな問いに導き出される答えは表現以前に自らが感じることだという単純明快な結論。

人工物はたいてい初めから美しく見えるように作られている...そこに感動し形に残そうと思えば記念写真にするなら良いけれどプラスアルファ何か自分なりの想いを詰め込もうと思うと本質よりも表面的な派手さが邪魔をして難しい。私が写真に残したいものは見栄えの良さではなく、何気ない日常の中で「ほらこの角度から目を細めてみるといつもの景色があんなに美しく見えるよ」という発見みたいなもの。

モノクロフィルムを使い続けていた頃私が好んで使ったのは決まってKodak T-MAX3200で、高感度ゆえほとんどのシーンで三脚を必要としない撮影スタイルに重点を置いていたのが大きいですが、何より粒状性が悪くザラザラの画になるため決して「綺麗な写真!」とは言われない事にも狙いがありました。色の表現が出来ないモノクロである事で「綺麗な色」と言われない事も同様に。

綺麗な写真というのは先駆者の経験によるセオリーみたいなものがあって今ならそれらがカメラに機能の一部として搭載されていたりしますからモードダイヤルを切り替えるだけでそれっぽい写真が撮れます。でもそうやって撮られた写真の多くは「綺麗だね」で終わってしまう。どんなにインパクトがあっても10秒で慣れて(飽きて)しまう。

以前とある有名写真家の写真展に来ていた来場者が「どうやって見れば良いのか分からない。どの写真も綺麗というわけではないし...」と意見していたのを思い出しました。写真=綺麗なものという認識でいると確かにそのような感想を持つのかもしれません。

写真というのは言語のように人に自分の気持ちを伝える手段。絵を描く人が目の前の景色を記憶以外の形として残そうと努力するように、音楽家がその時の感情を何とかメロディに変えて伝えようとするように、写真は目の前の現実を一緒に見る事の出来なかった人へ伝える手段として用いる特殊な言語。

しばらく忘れていたものを札幌を訪れた事で思い出した気がします。

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