Simply mini J

1日5分、その日の自分を振り返る時間を作りなさい。
    昔そんな話をお坊さんから聞いた。

命と引き換えに伝えたかったもの

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All Photo by inos

新聞等の印刷報道、文学、作曲に与えられる米国で最も権威ある賞、中でも報道部門は雲の上の存在として写真ファンなら誰もが知る特別な響き。ピュリッツァー賞。

そんなピュリッツァー賞受賞作をこの目で見るのは生まれて初めてのこと。日本人2人目となる受賞者 ”沢田教一” 展に足を運びました。

沢田教一さんは私が生まれるずっと前に既に亡くなっている写真家さん。1955年頃から写真を始め、地元青森の風景をカラー写真で残していることにも驚きますが、その後ベトナム戦争で米軍に同行取材。当時はまだ写真技法など確立されていなかった頃だと思いますが、沢田さんの写真はそういった技法をよく理解しているかのように仕上がっていて、今で言うところの写真雑誌でも読んでいるかのように絵作りが丁寧であるのが印象的。

でも、やはり作品の本質は写真の仕上がりではなく ”何を訴えたかったか”。それは順路に沿って10枚も目を通せば明確となり、それ以降はもはや息を飲むような作品に圧倒され、やがてピュリッツァー賞だけでなくロバートキャパ賞や世界報道写真コンテスト大賞を受賞したいくつかの写真が現れれば言葉を失います。

それは悲惨な現実を目の当たりにして...という意味だけでなく、激しい戦闘の最中でも沢田さんは最前線で戦う兵士の姿以外に、その裏にあった市民の心の声に寄り添いそれを形にすることで、写真という限られた表現手法ながらその時代背景や市民の想いといった目には見えないものを想像させ、そして戦場の恐怖と平和を見つめることの大切さをストレートに表現していたのでした。

実際、ピュリッツァー賞を受賞しているのも戦闘の様子ではなく、一般市民である2人の母親が子供を連れ深い川を渡る姿を捉えた作品ですし、その他の受賞作品を見ても 確かに受賞にふさわしい内容、いずれも恐怖だけでなくどこか人間味ある優しさとの対比で構成されているため、時代を超えて見た者の感情は自ずと当時の現実を連想するような作品。

なるほどと思いましたね。私的には近年稀に見る刺激的な写真展でした。単に芸術的な写真展なら他に沢山ありますが、写真というものが言語の代わりに60年も先の未来の人に伝える手段として使われ、それを受け取った ”戦争を知らない我々” に衝撃を与えた...。本物を見たことがない人がさも本物を見たかのように。

沢田さんはその数年後、カンボジアで襲撃を受け34歳という若さで命を落としています。

私は子供の頃に写真を始めてから今年で30年余り。しかし少なくともそんなふうに未来の人に何かを伝えられるような写真は1枚も撮れていません。当時より高性能な機材を持ち、情報に溢れ、命の危険なく好きなものが撮れる時代に生きているのに...。腕じゃなく、機材でもない、圧倒的に違うのは ”命を掛けてでも伝えたいものがある” という気持ちなんだなと。命と引き換えとは言わないまでも、今、人に伝えたいものって何だろう...そんなことを考えるきっかけになりました。

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