Simply mini J

1日5分、その日の自分を振り返る時間を作りなさい。
    昔そんな話をお坊さんから聞いた。

大人は原宿に何を思う(2)

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All Photo by inos

この街は何でもカッコよく見せる事が得意なのかもしれません。自分をカッコよく見せる、商品をカッコよく見せる、お店をカッコよく見せる、歩き方や座り方をカッコよく見せる、待ち合わせをカッコよく振る舞う...。

またその反面、カッコ良さを学んでいる場でもあると思います。あの人カッコイイ、あのお店で食べていたらカッコイイ、通行人の多い交差点を高級スポーツカーで駆け抜けたらカッコイイ、そもそも原宿にいたらカッコイイ。

いずれにしてもカッコよさを気にするという事は自分が人からどう見えているかも気になっているんじゃないかと思います。原宿に限らずその土地を歩こうと思った時点で少なからず環境に馴染む努力をしているんじゃないでしょうか。

山に登るのにハイヒールで行こう!という人は普通いない(最近はいるらしい)ように、銀座を歩くならバックパックよりレザーのショルダーバッグにしようとか、野球の応援に行くなら帽子を被っていこうと考えます。つまりその場へ足を向けようと考えた時点で予備知識的にある程度の理解をしている...。行く前から研究は始まっているという事です。

   

人はカムフラージュする事を今でも本能的に行っているのかも知れません。立派なホテルに泊まるのにボロボロの洋服じゃおかしいかな?とか、静かな教会を訪れたら大きな声を出してはいけないかな?とか、とにかく自分が置かれた環境で吐出して目立ちすぎないよう平均値を探りながら生きている...そんな一面が特に日本人には強い気がします。流行のものを身に付けるとか、話題の物を食べに行くなんてのも、人並みという言葉に置き換えられた平均値を探っている感じがします。

渋谷や原宿には建物の壁や自動販売機への落書きやステッカー貼りが後を絶たないと聞きます。確かに街の至る所にそのような傷跡を目にしますが、これもカムフラージュの一つだとすれば、街が人に染まっているとも言えますし、街に人が染まっていくとも考えられます。どちらも良いとか悪いとかではなくて、もし人が本能的に平均値に落ち着こうとするならば、実は個性が目立つとされる原宿も放っておくとどんどん均一化されていって、1年前は奇抜とされたものも今年になったらそれが普通...みたいに、人の感覚のほうが麻痺していって、そうなるまい!と思う気持ちが若者には強く、この街と集まる人達を常に次のステップへ導いているのかな...とそんな事を考えました。

それって言葉の進化にも似ているような気がしますね。新しい言葉って大抵若者から始まったりしますから...。

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