Simply mini J

1日5分、その日の自分を振り返る時間を作りなさい。
    昔そんな話をお坊さんから聞いた。

芸術の基本を考え直す

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All Photo by inos

私も若い頃は、新宿や渋谷を歩けば綺麗なものにも汚いものにもカメラを向け、自分が感じたままの写真を残していましたが、近年は徐々に汚いものは撮らなくなってきた気がします。

それが良い傾向だとは思っていないのですが、あえて汚いものを写真に残す必要もないのかな?と感じていて、少なくとも意味もなく街のゴミ箱や汚れた自動販売機を撮る事は減ったのは事実です。

自分を取り巻く環境や時代、技術の進化という理由もあるかもしれません。昔なら毎日カメラを持ち歩く人など余程写真好きな人でなければあり得なかったですし、他人が見たらそこに価値を見いだせないような写真にもプリントして目に見える形にするにはお金が掛かったわけですから「撮る」事に覚悟が必要でした。しかし現代はスマートフォンがある限り誰もがカメラを持ち歩いているわけですし無限に近い写真がタダで撮れるわけですから、「覚悟」より「活用方法」を考える方が世間の評価に繋がりやすい気がします。

また、スマートフォンではなくあえてカメラを持ち歩くからにはそれなりの結果を残さなくてはいけないというプレッシャーもあってか、世の中的には解像度だとか暗所耐性だとか「撮る事」よりも「性能を語る事」が増えたようにも感じます。

先日千葉の棚田を撮影した写真をSNSに投稿したら思いのほか評判が良くて驚きました。その前の星の写真も同様ですが、一般的には ”綺麗に撮れている写真” が評価されるのは当たり前。でも撮り手の立場からすると、仮に世の中で ”最高” と言われるような美しい写真が撮れたとしても、絵はがきみたいな写真なら自分ではなくても同じような写真は撮れるような気がして「いいね」を貰える事に違和感があります。同じ場所に行って同じようなカメラを同じような設定で使い、お手本の写真をまねたアングルを選べばそれなりに撮れてしまい、後処理の難しさがあるとしても最近ではフィルター1つでアーティスティックな写真に仕上がったりしますから、もしかするとお手本の写真よりもドラマチックな作品が出来るかもしれません。それらの使いこなしもテクニックの一つだと言ってくれる人もいますが、今後益々技術が進めばカメラ設定や後処理も人がやるより機械の方が得意になるかもしれません。それはまるでドローンの進化みたいに。

私はこう思うのです。多くの人が ”良い” と思う結果なら自動化が出来るのではないかと。良いと感じる共通点があるから沢山の評価を得るわけで、統計的にそれをアルゴリズムに加えれば人じゃなくても出来てしまうのだろうなと。

だとしたら人として写真を撮るという事はどういう事なのか。思うにそれは作り手が完成させたものを提供する事ではなく、見た人が自分なりのストーリーを作れるような作品作りなのかなと考えます。答えは画の中にあるのではなく見た人の心で作り上げるものだと。見る人の価値は十人十色だからロボットには出来ない事。作り手というのは見る人に広がりを与える事、そのきっかけを作る事が一番の役割なんだと思います。

音楽だって同じですね。やみくもに自分の感情を訴えかけるような歌詞やメロディを並べるより、聴いた人が自分の置かれた環境に上手く重なるような曲の方が絶対に響く。辛い時にその曲を聴くと元気が出るとか、昔の誰かを思い出すとか、リズミカルに仕事が進むとか。決して「皆が良い曲だ」というから自分にも良い曲に聞こえるわけじゃない。今流行しているから自分にとって良い曲になるわけじゃない。

芸術というのは自分が感じた事を人に伝えるという根本的な役割があるように思います。人には些細な事でも自分にとってそれが大きな刺激であったなら自分なりの工夫でデフォルメして、気付かなかった多くの人にもその良さを伝えよう...それが芸術。有難い事ではあるのですが「いいね」を沢山貰うほど違和感を感じるのは、芸術の基本が逆転してしまうからでしょうか。「いいね」を期待したモノづくりになってしまったり、沢山のアクセス数が欲しくて派手な事をしたり。ゴミ箱を撮っていたあの頃をいったい何人が「いいね」してくれるでしょうか。

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